どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は昭和21年に撮影された日本の工業を紹介する映像を取り上げました。前回記事の映像同様に、米軍の戦略爆撃調査団が日本各地の戦争被害を撮影したフィルムに含まれていた、工業に関する映像を寄せ集めて編集したものだと思われます。

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まずはカチンコから。読みにくいですが場所は「YAHATA(八幡)」、日付は「1946年(昭和21年)2月13日」と見えます。製鉄業で栄えた福岡県八幡市(現・北九州市の一部)のことです。

映像にナレーションはありませんが、「US National Archives(アメリカ国立公文書記録管理局)」の元記事に掲載されている撮影メモによると、1950年(昭和25年)に解体された「日本製鐵株式會社(the Japan Iron and Steel)」の屋上から撮影されたものとのこと。奥に見える山の麓あたりは、旭硝子の工場だそう。

製鉄所の背後には港が見えます。八幡は戦争中3度にわたり空襲を受けており、B-29爆撃機が日本を空襲した最初の目的地が八幡製鉄所でした(1944年6月16日未明)。この最初の空襲では、製鉄所の被害はほとんど出なかったといわれています。

被害が最大だったのは、広島への原爆投下の2日後(長崎への原爆投下の前日)である8月8日の空襲で、八幡の街の21%が壊滅したそうです。

空襲の被害をあまり受けていないように見える工場群です。製鉄所への空襲については、米軍の戦略爆撃調査団は以下のように報告していました。

「マリアナ基地のB-29(著者注:1944年10月以降)は製鉄工場を特別に攻撃したことはなかった。すでに原料不足がはなはだしく、操業はひどく低下しており、残っている鉄鋼の生産はもはや大きな関心をひくほどではなかったからである」(「日本産業百年史」より)

とはいえ、戦前・戦中の最盛期に全国で37基の高炉が稼働していたのが、戦後残ったのは八幡製鉄所の3基だけだったそう。

少し見えにくいですが、高架を蒸気機関車が走っていきます。

映像の6:50ごろからは、他の場所でのシーンに挟まって八幡製鉄所での製鉄の模様が入っていたので、順番を替えてここに差し込みます。70年前にして、ここまでオートメーション化されていたんですね。



2:37ごろ、場面は変わって、撮影メモによると「Korosue」の炭鉱夫たちをアップで捉えていきます(※冒頭の画像も)。炭鉱で栄えた福岡県遠賀郡の「頃末」のことだと思われます。

随分と若そうな炭鉱夫さんたち。撮影メモによると、ここに映るのは14~17歳の少年・青年たちとのこと。現代の感覚からすると(14歳で働いていることも含め)、本当に頭が下がります。

こちらはベテランの炭鉱夫さんたち。貫禄が違います。

中庭に集って、全員お辞儀。朝礼でしょうか。同じようなシーンが7:39頃にも収められているので、そちらも合わせて紹介していきます。

さらに、この戦略爆撃調査団の映像ではお馴染みの撮り直し。再びお辞儀をさせられています。一人先に頭を上げてしまった人が、気付いてまた頭を下げています。集団お辞儀あるあるは、70年前も変わりません。

続いては、回れ右をして「二礼二拍一礼」。背後の丘に神社があるようです。

最後は敬礼をして、仕事に向かいます。何人かはスコップを持っているのが分かります。

こちらは炭鉱入り口の建物内。入る前に警備の人(?)がチェックしているようです。

9:36頃のシーン。炭鉱内は照明がないのか、ヘルメットに付いた明かりだけが見えています。「ホタルを想起させる」と撮影メモ。

朝礼のシーンで見えた神社の鳥居の上からの眺め。

撮影メモによると、坑内の換気のための装置のようです。

カチンコが入ります。場所は「KOROSUE(頃末)」、日付は1946年(昭和21年)2月1日です。

頃末の街並みを山の上から撮影したものだそう。奥に見える赤い屋根は、先ほどの炭鉱の建物でしょうか。学校や病院も捉えているとのこと。右上の赤い屋根が学校っぽいですね。

石炭を大きさで仕分けする機器と倉庫を捉えて、頃末のシーンは終わります。



順番は前後しますが、6:35頃に入るカチンコです。場所は「TOKUYAMA」、日付は年は映っていませんが2月26日となっています。山口県の徳山(現・周南市)かと思われます。男性が竹籠を編んでいるところのようです。

引き続き、徳山の映像です。日付は3月4日。荷車を引いた馬を連れた男性が2人やって来ます。

とある場所に着くと、馬を連れてきた男性が呼び掛けます。すると坂の下から別の男性が4人ほど上がってきて、荷車の上のブツを下ろします。撮影メモによると、松の根だそうです。

下ろされた松の根を、斧やノコギリで細かくしていき……今度はそれを麻袋に詰めていきます。

それを釜の中に詰め込み、密閉したら、釜の下から熱します。密閉されたまま熱せられることで熱分解し、可燃性ガスが発生します。

そのガスが通るパイプを水の中に潜らせることで冷却します。冷却されたガスは、液体になって瓶に落ちてきます。

できあがったのは、松根油(しょうこんゆ)です。知る人ぞ知る、太平洋戦争中の日本で、航空ガソリンの原料としての利用が試みられた石油代用品の作り方でした(結局実用化されず)。

これは生産性が低すぎますね。とはいっても、現代世代からすれば、製造過程を見られただけでも貴重です。



同じく徳山の映像です。男性が炎に包まれた鉄釜に入った白い液体のようなものを混ぜています。男性の上着はかなり焦げているように見えます。耐火性の素材なのでしょうか。

今度は別の鉄窯へ行き、白いものをスコップですくい上げます。すくったものは、こうして木箱に入れていきます。海水を釜で 加熱し、水分を蒸発させて塩にする「煎ごう塩」を作っているところのようです。



最後の場面は、大分県の別府とのこと。港が映し出されています。

こちらの船では、衣服が干されたりしていて、生活感にあふれています。几帳面にデッキにブラシをかける姿も。



20分弱の、ほとんど整理されていない映像で、このまま見るのはキツイのかもという内容でしたが、整理して、さらに当時の現状と照らし合わせることにより、非常に歴史的価値のある内容だったことがわかりました。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)



※参考文献
・日本産業百年史/有沢広巳監修(日本経済新聞社)
・戦後日本産業史/産業学会編(東洋経済新報社)