どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は鹿児島県のYouTube公式チャンネル内の「なつかしの鹿児島」から映像をピックアップしました。

タイトルは「奄美大島」。昭和28年(1953年)制作とのことで、63年前の映像です。昭和28年というと、奄美大島を含む奄美群島が米軍統治下より日本に復帰した激動の年でした。

念のため地理を説明しますと、奄美大島は鹿児島県の本土と沖縄本島の中間にあり、沖縄寄りに位置しますが、鹿児島県に属しています。歴史好きの人なら、西郷隆盛が最初に島流しされた場所としてもご存知かもしれません(お酒好きなら黒糖焼酎の島としても。著者は奄美で酒蔵巡りをしたことがあります)。

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「歓迎」「名瀬市(2006年の市町村合併により現・奄美市)」「奄美大島日本復帰協議会」と書かれた門が見えます。「奄美大島日本復帰協議会」とは、当時の奄美大島でできた政党、社会民主党によって結成された復帰運動の組織でした。

昭和28年12月25日、8年におよぶ米軍支配を終え、日本復帰を果たした当日の様子のようです。踊りなどが催されています。

提灯行列です。夜になっても興奮冷めやらぬようで……。



と、復帰に沸く島の様子はここまでで、ここからは、いろいろと厳しい島の実情が伝えられていきます。一番の港である名瀬港は、大型船が着岸できず、はしけに乗り換えて上陸していました。砲台のようなものも、8年経っても放置されたまま。

ナレーションいわく、「荒れ放題の港湾施設」。以前紹介した戦後の沖縄を取り上げた記事では、沖縄本島は基地の島として道路建設などの整備が急速に進められていきましたが、米軍の戦略的にあまり価値がなかった奄美大島は、野放しにされていたようです。

「天文館通」と掲げられた商店街。品数は揃っているようですが、値段が高くあまり売れていないのだとか。こちらはお米屋さんのよう。お米の価格も高く、買えるのはわずかな人のようです。

奄美大島も戦時中に米軍の空襲を受けていましたが、多くの家はバラック小屋のままの状態でした。かなり復興が進んでいた本土の人の目には、驚きに映ったことでしょう。

道路ももちろん未舗装で、雨が降ったらぬかるんでこの通り。

島で唯一の公共交通機関のバスだそうです。そのまんまトラックの荷台ですが。ぬかるみにはまったのか、乗客たちが降りてバスを押しています。



山がちな奄美大島には農地が少なく、船で上流まで行き、段々畑で作業をする人たちも。「労を多くして、収穫の少ない貧しい農法です」とナレーション。行政などによる指導が必要ですね。

こちらは農民たちの食事風景。貧しいながらも笑顔があふれて幸せそうです。

奄美の農産物の筆頭はサトウキビ。しかし、畑の荒廃や製造施設の不足で、収穫高は戦前の半分にまで落ち込んでいるのだそう。サトウキビは、昔ながらの牛で引かせて圧搾しています。

大島紬、黒砂糖に続く島第3位の輸出産業は林業なのだそうですが……、切った木材を牛がノロノロと運んでいくので、生産性は低いようです。ハブが多いのも、林業の妨げになっているのだとか。

島の経済の大動脈というべきは大島紬ですが、生産高は戦前の1割5分にも満たない状態なのだとか。大島紬は、木の煎じ汁で60回以上、泥で5回以上揉むという、手数が掛かる製法なので、人員不足も影響しているのでしょう。



映像の最後は教育について。「学校の施設は馬小屋同様のひどいものであります」とナレーション。

茅葺き屋根の校舎に……、教壇はこの通りボロボロ。雨漏りがするので、雨が降ったらバケツで受け止めなくてはなりません。

教材も足りていないようで、何人かで1冊の教科書を読んでいます。当然、子供たちの学力低下は免れられないようです。教育に力を入れていた沖縄とは大違いです。



断食祈願、天皇への電報での要請、密航しての陳情など、島民によるさまざまな復帰運動をもって達成されたといっていい日本復帰。紹介された諸事情を見る限り、1日でも早い復帰を望んだ気持ちがひしひしと伝わってきました。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)



※参考文献
・奄美の奇跡 「祖国復帰」若者たちの無血革命/永田浩三(WAVE出版 2015)
・鹿児島県の近代史/原口泉 宮下満郎 向山勝貞(山川出版社 2015)