どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は静岡県がYouTubeに公開している「静岡県政ニュース」から昭和20年代(今回は昭和27年に絞り)のものをピックアップしてお送りします。昭和27年(1952年)とは、前年に結ばれた、いわゆる「サンフランシスコ平和条約」が4月28日に発効し、日本が事実上、占領下にあった連合国から独立した年でもありました。

県政ニュースということで、議会の様子やその年の予算の使い道、公共工事の進捗状況、県の施設案内やイベントなどを中心に取り上げていて、現代に生きる我々には縁遠いものも多くありますので、著者の独断で数本のニュースフィルムから興味深そうな部分だけを切り取って紹介していきます。早速見ていきましょう。

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【動画】「昭和27年 中卒をひかえてせまき門-就職戦線-静岡職安 ほか」

まず紹介するのは、映像の2:01頃から始まる「中卒をひかえてせまき問-就職戦線」というタイトルです。昭和27年当時の県下の中学卒業児童は約5万人ほどだったそうですが、そのうちの約1万5000人は就職予定だとか(別の映像で述べていたところでは、進学する児童は約2万人ほど。残り1万5000人ほどは、農家や商店などの家事手伝いほか)。

およそ30%が就職希望ということになります。平成25年の総務省統計局のデータによると、静岡県の中卒時点での就職率は0.5%、進学率は98%なので、当たり前のように進学すると思っている現代の中学生とは、意識の差がかけ離れていたのだろうことが分かります。

女子は紡績工場などに働き口が多数あり、就職は比較的楽だったようですが、男子にとっては狭き門だったようです。

こちらの女子生徒は、盤面に刺さっているピンのようなものを抜いては、別の場所に刺し替えています。著者は実物を見たことがありませんが、指先器用検査のための器具なのだそうです。現在でも同じようなものが使われているようです。

中学校によっては、男子生徒に職業訓練を施しているところもあったようです。また、県の職業補導所(現・職業能力開発校)に通い、腕に職を得ようとしている児童も少なからずいたようです。

最後の場面は、ハンマーを振る練習でしょうか。いつの時代にあっても、就活は簡単なものではなかったようです。



続いては、「家族設計のための-受胎調整」というタイトルです。この当時の静岡県では毎月4000人、毎年5万人ほど人口が増加し続けていたそうです。人口が減少し危機感が叫ばれている現代とは真逆ですが、急激な人口増加もそれで抑えなければならない状況です。

それゆえに、県の保健所ではいかにすれば受胎調整できるか周知を急ぐ必要があり……、婦人を集めては、月経周期から知る避妊方法などを広めていっていたようです。

最後は滑り台に群がる子供たちの姿。効果音としてたくさんの赤ちゃんが泣きわめく声が付けられています。昨今の子供不足の現状からすると、ほほ笑ましい光景に受け止められますが……。人口急増時と減少時との受け止め方の差を感じます。



【動画】「昭和27年 勝っておごらず-静商ナイン ほか」

次の映像に移って、1:13から始まる「税のゆくえ-土木費について-」というタイトル部分です。県内の主要道路3000km、橋は4000本あり、そのうち半数の橋は木製なので、風水害や老朽化で架け直さなければならない状態にあったそうです。

この場面はぜひ映像で見ていただきたいのですが、木製の橋をトラックが渡っていきます。走行箇所だけガクンと沈み込んでいて、見ているだけで気が気でないです。

この年度の県予算86億円のうち、およそ15億円が土木費に費やされるそうですが、この予算では維持・補修するのがやっとの金額だとか。この木製の橋では、バスに乗っていた乗客を下ろして歩いて渡ってもらっています。乗客を乗せたまま渡るのは危険だということでしょう。こちらには、朽ちてしまった橋の姿も。この橋の場合は、すぐ隣に新設の橋が架かっているので良かったですが……。

予算は十分ではないかもしれませんが、県議会が任命した監査員などが税金が正しいところに使われているか、修繕が必要なものを優先的に取り掛かっているかなどを重点的にチェックしているので、県民のみなさんはご安心くださいということでニュース映像は締めくくっています。



同じ映像の4:32頃からの内容です。タイトルは「結核追放」。結核とは、現在では死亡率は低くなっていますが、昭和25年当時までは日本で死亡順位1位の疾病で、年間約12万人の方が亡くなっていたそうです。

予防接種を受けているのでしょうか。和服のご婦人が多く見られます。昭和27年当時も大変な疾病であることには変わりませんが、かつて難治と呼ばれていた結核も、早期発見して治療すれば必ず治る病となっていたようです。

細い路地を飛ばしていくバスが来ました。「レントゲン自動車」のようです。結核を見つけるのに重要なのは、第一に肺のレントゲン検査です。レントゲン自動車が行けるところには、どこでも検査へ行きますが……、

レントゲン車が行けないような環境の場所へは、レントゲンを分解して、背負ってでも検査に向かったようです。山を越え、川を渡っても。このような地道な努力があって、現在では死亡率1%台になるまでに至ったのですね。



【動画】「昭和27年 文化の日-晴れの表彰ほか」

お次は、「移動する交番パトロール・カー」というタイトルです。そう、パトカーの話題です。ナレーションいわく「戦後、ひとり猖獗(=悪い事がはびこること)を極めていくものは、各種の凶悪犯罪でありましょう」。戦前・戦時中の厳しい取り締りが解かれた一方、物資不足の貧困化が合い重なったことが原因となったことでしょう。

防犯上から新しく警邏上に就いたのがパトロール・カーだったようです(富士山が絶景です)。現在のパトカーとは異なり、軍用車のようなドアなしタイプの自動車が使われていました。

パトカーは、男性が倒れている現場に到着したようです。すかさず、車に備え付けの無線機で連絡を入れます。

県の警察本部、さらには署長へも連絡は行き、命令が下され、警察部隊が出動! 現在では別段変わったことはないように思いますが、当時は画期的なことだったのです。さらに平時には盗難や落とし物の対応といった交番の役割や、急病人に医者を呼ぶといった救急車的な役割もこなしていました。1日の走行距離は100kmと、現在以上にハードに役割をこなしていたようです。感謝!



現存する昭和20代の日本の映像となると、米軍映画撮影隊によるフィルムなど、アメリカ目線で撮影されたものが中心となってしまい、場所も東京都心部や米軍基地周辺などがほとんどですが、このような国内の報道を目にしてみると、戦後の貧しい状況を打開しようと一生懸命模索していた時代だったというのが垣間見え、新たな発見もあったのではないかと思います。引き続き、昭和の歴史を紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)