どうも服部です。今回は70年目の終戦の日(公式には「戦没者を追悼し平和を祈念する日」)のタイミングということで、これまで紹介してきました「昭和の動画を紐解いていくシリーズ*」の中から、戦後すぐの日本を扱った記事を4本、ダイジェストで紹介したいと思います。

*「US National Archives(アメリカ国立公文書記録管理局)」が公開している映像や、YouTubeで公開されている昭和時代に撮影された映像から場面を切り出し、解説を加えていくシリーズ

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■【戦艦長門の貴重映像も】1945年の連合国軍による日本占領が用意周到すぎて驚がく

1本目は、米軍を中心とする連合国軍が、どのように日本を占領していったかを伝えている映像、「ALLIED FORCES LAND IN JAPAN (連合国軍日本上陸=著者訳)」を取り上げた記事です。

動画「ALLIED FORCES LAND IN JAPAN 」

一般に見る「日本の終戦」についての映像というと、昭和天皇の玉音放送に始まり、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官が飛行機で厚木飛行場に降り立ち、米艦ミズーリ号で降伏文書調印という流れでの紹介が多いのかと思いますが、この映像では、マッカーサーが厚木に降り立つまで、米軍がどのようにして東京周辺に上陸していったのかがまとめられています。

400隻ほどの軍艦が日本へ向かっていきます。艦隊を率いるのは、後日となる9月2日、艦上にて降伏文書調印が取り交わされることとなる戦艦ミズーリ(※上の写真)です。

一方、沖縄では東京方面へと飛び立つ米軍輸送機がズラリと並び待機していました。特殊部隊である「第11空挺師団(通称エンジェルス)」が厚木飛行場に先鋒した後に出発することになっていたそうです。厚木に到着した先鋒隊が待機していた日本の軍関係者と話し合いをした後、施設には星条旗が掲げられ占領開始となります。沖縄に待機していた輸送機が続々と厚木に降り立ちます(※上の写真は厚木に到着した最初の輸送機)。

海からの占領も始まっていました。相模湾に入って来た軽巡洋艦サンディエゴに、日本兵が水先案内人として乗り込みます。この軽巡洋艦サンディエゴが、連合国軍の中で最初に東京湾に入った軍艦でした。

その途中、カメラは横須賀沖で停船中の軍艦・長門の姿も捉えていました。

米軍海兵隊による上陸の様子が映されます。日本の反撃を想定してか、かなり警戒しての上陸です。一方で、軽巡洋艦サンディエゴが横須賀港に着艦。簡単なやり取りを経て、横須賀港はアメリカ軍の管理下に入りました。

映像最後は、マッカーサーが厚木飛行場へ降り立つ有名なシーンが映し出されます。1945年8月30日、最初の輸送機が厚木に到着した2日後のことです。厚木飛行場には、占領初期に米軍が使用するため、日本国内から自動車が集められていました。

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■【貴重すぎ】終戦わずか数週間後の日本のカラー映像

2本目の記事では「Occupation Of Japan In World War II(第二次大戦での日本の占領=著者訳)」というタイトルの3分ほどの短い映像を紹介しています。1本目の記事の映像と同時期(1945年8月下旬)から同年9月前半にかけて撮影されたもののようで、カラー映像です。

動画「Occupation Of Japan In World War II」

映像は富士山を望む艦上シーンから始まります。そこに日本の軍服を着た人たちを乗せた船が並走してきます。

1本目の記事でも切り取ったシーンと同じ、軽巡洋艦サンディエゴに日本兵が乗り込んでくる場面のようです。この動画では、日本兵がボディーチェックを受けたり、米兵に聴取されているようなシーンも映し出されています。

やがて横須賀港周辺に到着。カメラはクレーンや陸揚げされている船を捉えていきます。

道路の案内標識の距離表示からして、多摩川に架かる「六郷橋(国道15線)」のようです。米兵が立って監視しています。

場所が変わって「警察警備隊本部」の前では、米兵と日本の警官とダブルで立番しています。米軍関係者が入って来ても、日本の警官は微動だにせず、米兵だけが対応しています。

最後は住宅街に米兵が訪れた場面。米兵たちの周りに集っている大人たちと、それを遠巻きに見ている子供たちの姿が捉えられています。大人たちは米兵からお菓子のようなものをもらったようです。日本語会話集のような本を見ながら子供とコミュニケーションを取っている米兵もいます。

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■【カラーで見る】原爆投下7ヵ月後の広島が衝撃的すぎる

3本目は「Hiroshima Aftermath 1946 USAF Film(1946年の広島の状態 アメリカ空軍フィルム=著者訳)」というタイトルの映像を取り上げた記事です。記事のタイトルにしているように、広島へ原爆が投下された7ヵ月後に撮影されたカラー映像です。

動画「Hiroshima Aftermath 1946 USAF Film」


まず撮影のカチンコが映し出されます。Dateの枠に「April 8 46」と書いてあります。1946年(昭和21年)4月8日の撮影のようです。 廃虚の屋根の下で子供たちと手を繋ぐキリスト教聖職者や、破壊された教会(※上の写真)が映ります。「日本基督教団 広島流川教会」という広島市流川町(現在の広島市中区流川町)にあった教会(1971年に広島県中区上幟町に移転)でした。

映像はさらに、瓦礫の中で食物を栽培している男性や、真新しい仮設住宅、お墓などを映していきます。

原爆投下から8ヵ月近くが経ってもこの瓦礫の山です。重機が現代のように充実していない当時では、気の遠くなるような量です。

大八車で家財道具を運んでいるような姿や、自分の住居跡を見つけたのか、整地を始めている男性の姿もあります。

広電と呼ばれる路面電車が走っていきます。広電は被爆のわずか3日後から一部区間で運転を再開していました(己斐~天満町間)。

そして、大型トラックに瓦礫を積み込む作業をもって、映像は終了します。気が遠くなる作業ですが、このような地道な努力があって、広島は復興していったのですね。

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■【貴重すぎる】占領時代、米軍の日本での行動が赤裸裸に記録されていた

最後は、「Japan: Our Far East Partner - The Big Picture(極東アジアでの朋友:日本【ザ・ビッグ・ピクチャー】)」というタイトルの動画を紹介した記事です。「ザ・ビッグ・ピクチャー」とは、アジア地域で毎週放送されていたアメリカ軍のオフィシャル番組です。番組自体は1951年(昭和26年)ごろ放映されたと思われるものですが、戦後間もなくを振り返る内容も多く含むので、そういう場面だけを切り取って紹介していきます。

【動画】「Japan: Our Far East Partner - The Big Picture」


日本の警官を先頭に行進する米兵たちの姿。沿道で見ているのは、お年寄りと男の子供たちが目立ちます。「口では『ようこそ』と言ってくれていますが、その表情には友好的なものは見られません」、と映像のナレーションが入ります。先日までの敵国ですからね。

空襲によって破壊された街並み。高い煙突がポツンと残っています。

国民服を身につけた男性たちが眺めている先では……、米軍が重機を使って瓦礫の撤去作業をしているようです。

日本人だって、見学しているばかりではなく、スコップなどを使って必死に瓦礫除去をしています。

最後は、よく映画などで見たり聞いたりするけど、実際の映像では見たことはないかも……というシーンです。米軍車両一行がやって来ると、子供たちはいてもたってもいられないようで車を追い掛けていきます。

停車し、米兵のひとりが車の屋根に上がると、みるみるうちに子供たちが群がってきます。そう、終戦直後が舞台の映画などでよく扱われる「ギブ・ミー・チョコレート」なるシーンです。ここではキャンディーを配っているようですが。

ご存じない方に一応説明しておきますと、米兵が来たら「ギブ・ミー・チョコレート(Give me Chocolate)」と言えばお菓子をくれるという説が子供たちの間に広まり、米兵を取り囲んでおねだりをしているところです。情報の少ない時代に、どのように広まったのでしょうか。

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(服部淳@編集ライター、脚本家)