どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は米軍映画撮影隊が撮影した、日本の軍艦や民間船の映像を紹介していきたいと思います。

「WW2 Beached, Sunk, Damaged, Japanese Shipping, 4/12/1946 - 5/31/1946」とタイトル付けされたカラー映像で、1946年(昭和21年)4月12日から5月31日にかけて撮影されたもののようです。無音、無編集の状態で、ナレーションもありませんが、動画提供元の「US National Archives(アメリカ国立公文書記録管理局)」に詳細メモが掲載されているので、そちらを参考に解説を進めていきます。では、早速見ていきましょう。

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このシリーズでは何度もお世話になっている、米軍映画撮影隊のダグラス・マクガバン大佐の名前が入ったカチンコからスタートします。

映像は広島県の南西部に位置する呉(くれ)から始まります。呉には「呉海軍工廠」という海軍の軍需工場があり、「戦艦・大和」が造船された場所としても知られています。

ぽっかりと開いた穴が映し出されます。海に面した荒れまくった建物か何かかと思いきや、実はここ「空母・龍鳳(りゅうほう)」の甲板だったのです。上の穴は、1000ポンド(約450kg)爆弾による被害ではないかと推測されています。

呉軍港は1945年(昭和20年)3月19日と、同年7月24日から29日にかけて米軍による空襲が行われ、特に7月の空襲では停泊していたすべての軍艦が損傷を受け、半数以上が沈没しました。

飛行機を甲板に上げるエレベーターが開いたままになっています。「空母・龍鳳」は、もともと潜水母艦(潜水艦の補給などを行う船艇)「大鯨」として建造され、その後空母に改造されたものでした。1930年(昭和5年)に調印のロンドン海軍軍縮条約で、日米英の各国が保持できる空母や戦艦の数が制限されたため、有事の際に空母に改造できるようにと、最初から設計されていたようです。進水式は1933年(昭和8年)に行われています。

廃物利用のため、甲板の板などをはがす作業が行われています。こちらでは金属部品などを回収しているようです。



続いて映し出されたのは、「重巡洋艦・青葉」の姿です。1926年(昭和元年)に進水、1940年(昭和15年)には改装され、排水量が700トンほどアップしました。

側面にぽっかりと穴が開いています。青葉は1944年(昭和19年)10月にフィリピン近海で米軍に攻撃され大破、修理のため同年12月に呉に戻ってきていましたが、1945年7月の米軍機による空襲で大破着底しました。



続いて映し出されたのは、「戦艦・日向」の姿。甲板のあたりまで沈んでしまっています。青葉と比べると違いは一目瞭然で、上部構造(船体中央の背が高くなっている部分)が立派です。

上部構造をアップで捉えています。

日向が進水したのは1917年(大正6年)と古いですが、1943年(昭和18年)には航空機が出撃できる航空戦艦として改装されました。戦艦・長門が竣工する1920年(大正9年)まで、短い間ですが連合艦隊の旗艦(艦隊の司令官が乗る船)を務めた日本を代表する戦艦です。

右後部から見た日向です。はっきりと映っていませんが、航空戦艦とするため、後部のこの辺りに付いていた主砲を撤去し、滑走路としていました。飛行機が着陸するには滑走路が短すぎのため、もっぱら発艦するのみだったようですが……。

甲板の上には人の姿もあります。

ちなみに、ダグラス・マクガバン大佐率いる米軍映画撮影隊に加わり、原爆投下後の広島の様子を撮影したことでも知られている映画監督兼カメラマンの三村明(海外名:ハリー三村)氏の父親の三村錦三郎海軍少将は、この戦艦・日向の艦長でもありました(1918年11月10日 - 1919年11月20日。艦長時代の階級は大佐)。

呉での撮影時期が、広島市の撮影時期(1946年3月から4月)のすぐ後であることから、三村明氏も撮影隊に参加して、父親が指揮を執っていた戦艦の末路を目の当たりにしていたのかもしれません。

日向の前部主砲「四一式35.6cm連装砲」がアップで映されます。

日向は、青葉と同様に1944年10月フィリピン方面で米軍の攻撃を受けていますが、改装の際に対空火力を増強していたため損害は少なく、その後、呉に戻ります。しかし再び出撃することなく、翌年7月の空襲で着底大破しました。



この船首にかけて沈んでいるのは、資料によると「戦艦・伊勢」のようです。戦艦・日向と同様に航空戦艦へ改装された船艇で、日向とは姉妹艦でもあります。日向より1年早く1916年(大正5年)に進水、1943年(昭和18年)に航空戦艦に改装されています。

その後、フィリピンのレイテ沖海戦や、すでに連合国に制海権を奪われた海域へ強行突破して資源を輸送する「北号作戦」を切り抜け呉に戻ってくると、燃料不足のため予備艦として呉に停泊。1945年7月の空襲で大破着底しました。



ほぼ横転した状態の艦船が映ります。資料ではname unknown(名称不明)となっていますが、「空母・天城」のようです。真珠湾攻撃後である1943年(昭和18年)10月に進水した新しい空母で、建造が比較的容易に設計された雲龍型航空母艦の1隻として建造されました。船底側から見た姿も映っています。

活躍を待たれた天城でしたが、竣工したのは1944年(昭和19年)8月と遅く、日本はすでに深刻な燃料や航空機不足に陥っており、出撃機会はなく。呉に停泊しているところを、他の艦船と同様に1945年3月と7月の空襲を受け、沈没しました。



続いては、伊勢とは反対に船尾部分が沈んでしまっている軍艦が見えます。こちらも資料ではname unknownとなっていますが、「戦艦・榛名(はるな)」のようです。1913年(大正2年)進水と比較的古参で、第一次世界大戦にも警備活動で参戦。昭和天皇即位を記念した1928年(昭和3年)の「大礼特別観艦式」では、昭和天皇が座乗される「御召艦」になる栄誉を得ています。

2度の改装を経て、第二次大戦ではミッドウェー海戦やレイテ沖海戦という大海戦に参戦、無事切り抜けています。歴戦の後、1944年(昭和19年)12月に呉に修理に戻ると、他の軍艦同様に燃料不足により出撃できず停泊。1945年(昭和20年)の空襲被害により大破着底しました。前部主砲の「35.6cm45口径連装砲」などは被害後も使える状態にあったといわれていますが、まったく奇麗な状態にあります。

映像はまだ続き、福井県の敦賀、京都府の舞鶴での艦船の被害状況(貨物船や客船)が収められていますので、興味がある方はページ下部にある【動画】をご覧ください。



いかがでしたか? 情報なしに21分ほどあるこの映像を眺めている分には、船の残骸ばかりが映り、正直やや退屈かもしれませんが、そのバックグラウンドを知ることによって、さまざまな光景を思い浮べながら見ることができたのではないでしょうか。引き続き、昭和の歴史を紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

【動画】「WW2 Beached, Sunk, Damaged, Japanese Shipping, 4/12/1946 - 5/31/1946」は、(元記事)でご覧いただけます。