どうも服部です。goo地図の「昭和22年(1947年)の航空写真」や「昭和38年(1963年)の航空写真」を使って、現代の東京と昭和の東京を比較していくという企画、久々の第4弾です(1~3弾はページ下部の【関連リンク】から見られます)。

早速、その「謎のドーム」を見てみましょう。

※すべての画像は元記事で見られます。

こちらは約70年前となる昭和22年の航空写真(※元記事にて。以下同)です。場所が分かりやすいように現代の地図表記と重ねてみました。隅田川に架かる「両国橋」の右手(東)、JR(当時は国鉄)総武線の両国駅の下(南)にある、白い円形のものがそれです。住所でいうと東京都墨田区両国2丁目あたりです。

最大まで拡大したのがこちら(冒頭の画像)です。屋根には英語で「MEMORIAL HALL」と書いてあるのが読み取れます。70年前にこんな立派なドーム型屋根の建造物があったのかと驚かされます。

その正体とは、1920年(大正9年)に開館、大鉄傘(だいてっさん)の通称で知られていた「旧・両国国技館」で、戦後に占領軍によって撤収・改装さらに改称され「両国メモリアルホール」と呼ばれていた当時の姿です。

下の写真は、横から見た「旧・両国国技館」。関東大震災(1923年)で被災した直後のものだそうです。

Old Ryōgoku Kokugi-kan.jpg
"Old Ryōgoku Kokugi-kan" by ja: 不詳、墨田区立図書館収蔵『帝都大震災の慘狀  兩國國技舘』 en: unknon, a collection of the Library of the City of Sumida, Tokyo, Japan - http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/library/picture/taisyou/taisyou_03/index.html. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.



戦時中は昭和19年に陸軍に接収され、「風船爆弾」の工場として使用されていたのだそうです。昭和20年3月10日の東京大空襲では被害を受け、鉄傘(鉄骨で組み立てたアーチ形の屋根)も破損してしまいました。

占領軍による改装は、昭和21年9月24日に終了し、屋根もしっかりと修繕されています。改装後のこけら落としとして、昭和21年11月に大相撲11月場所が開催されますが、なんと「両国メモリアルホール」で大相撲の興行が許可されたのは、この1回だけ。ボクシングやプロレス、柔道などは開催されますが、なぜか相撲はNGに。ちなみに、元大相撲力士で「日本プロレス界の父」と呼ばれる力道山がプロレスデビュー(1951年《昭和26年》)したのは、ここ「両国メモリアルホール」でした。

1952年(昭和27年)に「両国メモリアルホール」は占領軍からの接収を解除されますが、すでに新たな国技館として「蔵前国技館」の建設が始まっていて、しかも建設途中の昭和25年から大相撲の開催もされていたため、「旧・両国国技館」での大相撲再開は断念され、売却されました。売却後はプロレスやボクシングの興行の他、ローラースケートリンクとしても使われていたようです。

その後、1958年(昭和33年)には日本大学に譲渡され「日大講堂」と名称を替え、1983年に解体されています。

こちらは、その「日大講堂」時代の昭和38年の航空写真(※)です。「MEMORIAL HALL」の文字は消え、色も濃い目のものになっています。

そして、1950年(昭和25年)から「両国国技館」に代わって使われてきた「蔵前国技館」は、1984年(昭和59年)9月場所をもって閉館。国技館は再び両国に戻って来ました。現在の2代目「両国国技館」です。

1985年(昭和60年)1月場所より使用されている2代目「両国国技館」が建てられた場所は、元あった場所ではありませんでした。赤い四角の枠(※)が、以前のドーム型国技館があった場所で、2代目は両国駅のすぐ北側に建てられています。この場所には以前何があったのでしょうか?

再び、昭和38年の航空写真(※)で見てみましょう。赤い枠の部分が、2代目「両国国技館」の中心部です。

同じ場所を最大まで拡大してみると(※)、どうやら長く連なった列車のようなものが見えます。この場所は、国鉄の両国貨物駅があり、貨物駅が廃止後は国鉄バスの駐泊場になっていました。

いかがでしたか? 1枚の古い航空写真からいろいろなストーリーが垣間見えて、とても楽しい時間の旅ができたかと思います。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)